努力ができるのも”才能”だったりする説
こんにちは、芹澤です。
今回は「才能」について、持論を述べようと思います。
思想強めの内容になるかと思います。
あらかじめご了承ください。
では、早速本題に入ります。
一般的な才能の定義
皆さんは「才能」という言葉を聞いて何を思い浮かべますか?
「勉強の才能」・「運動の才能」・「音楽の才能」
といった内容が思い浮かぶと思います。
「センスがある」「天才」とも言い換えられると思います。

「才能」とはなにか、私なりの定義をお伝えします。
「物事のキモをとらえるのがうまい」というのが私なりの定理です。
少しの労力でそれなりの結果、
さらには圧倒的な結果を出せるのが
「才能」がある人だと思います。
別軸の才能
一方で、「努力できる才能」という言葉もあると思います。
この場合、先ほどの「才能」という意味と異なる気がします。
「努力できる才能」を少し分解します。
「努力できる」は
「精神力で頑張り続けることができる」と「頑張るためのキモを知っている」、
「好きなことだったらいくらでも頑張れる」の
3種類があると思います。

当然ですが、先ほど「才能」との掛け合わせで
圧倒的成果を出す場合もあると思います。
むしろ「センスがあるという意味の才能」×「努力ができる才能」によって
成果を出している場合が多いとすら思います。
努力するという行動は
「精神力で頑張り続けることができる」
「頑張るためのキモを知っている」
「好きなことだったらいくらでも頑張れる」
のどれか、もしくは複数の組み合わせで成り立っているのだと思います。
それぞれについて、簡単に私の解釈を記載します。
精神力で頑張り続けることができる
一言で言えば、脳筋タイプです。
「なんでこいつこんなに頑張れるんだろう」という人、
一人くらいは思いつくのではないでしょうか。
がむしゃらにただただ気持ちで頑張れる人。
先輩や目上の人から、
かわいがられるキャラだったりする傾向があると思います。
頑張れる人は少なからずこの要素は持っている肌感覚があります。
頑張るためのキモを知っている
自分はどのようにすれば、頑張ることができるか
頑張り続けることができるか
俯瞰的に理解しているタイプだと思います。
自分で言うのは恥ずかしいですが、
私はこの傾向が一番強いと思います。
私の場合、気持ちの面では
「自分の価値を下げたくない」
「周りからすごいと思われてたい」
「努力している自分に酔う」
といった意識持ってます。
キモイですね。
具体的なコツとしては、
「一秒でいいからやる」
「成長の実感を楽しむ」
「さぼれない環境を作る」
こんな感じでしょうか。
習慣化してしまえば、1ミリもつらくありません。
努力するキモを知っている人は
習慣化までのプロセスがうまいとも言い換えることができると思います。
好きなことだったらいくらでも頑張れる
「ピアノなら何時間でも弾ける」
「好きな仕事のことを考えていたら数時間経っていた」
こんな話を聞いたことあると思います。
一種のフロー状態とも言えるため、
頑張っているという意識はないのかもしれません。
しかし、はたから見れば頑張っていることには変わりないです。
この資質がある意味最強だと思います。
私は残念ながら持ち合わせていません。
むしろ一つのことに長時間熱中することはほとんどありません。
細かい作業は苦手だけど、
ある分野にはものすごい時間・労力を投下できる人はたまにいます。
世界有数の起業家にも多い資質のようですね。
その資質がマイナスに働くことあると思います。
ですが、The天才という感じで憧れの対象です。
頑張ることは誰にもできるは嘘
今回お伝えしたい一番のテーマがこれになります。
「頑張る(努力する)ことは誰にでもできるよね」ということは
今の世の中、多くの人が持つ考えや前提な気がしています。
特に昭和的?な考え方の人は
このような気合いと根性の考え方は好きだと思います。
私もそのうちの一人で、
少なくとも最近までそのように考えていました。
環境的に頑張れる人が多かったこと、
私自身、比較的つまらないことにも努力できる耐性があったことが
背景にあったのだと思います。
しかし、社会に出てたくさんの人や考えに触れたことで
少し私の中の努力するということに対する向き方が変わりました。
自分が当たり前にできると思っていることを
できない人もいる。
実は頑張るのもその一面がありますと考えています。
ある意味向き不向きがあることだと私は理解しています。
親が子供に、上司が部下にある分野に関して、
頑張っていないことに対して、
それを強制するのは実は本質から難しいのかもしれません。
学校の勉強を頑張れも実は酷なことかも
頑張ることが当たり前とされている物の中で
一番顕著なのが「勉強」だと思います。
日本人ならほとんどの人が
義務教育という縛りがあるので
学校で勉強を行います。

勉強は
「頑張ればできるようになる」
と思われているものの代表格だと感じています。
確かに他の分野に比べれば
微差ですがその傾向はあると思います。
しかし、勉強ができる
正確に言うと、勉強という分野で努力ができる
というのにも向き不向きがあると
言わざるを得ないと思うのです。
正直、それが怠けなのか、
先天的に仕方がないことなのかの判断は難しいです。
勉強を頑張れない人は、
頑張ってるけど、努力の方向が間違っている人。
頑張ろうとしているけど、頑張れない人。
ただただひたすらに怠けている人。
の大きく3種類いると思います。
結果だけ見ると、勉強を例にとった場合、
みんな「成績が悪い」という結果になります。
1番目の事例は
他人の目線からすると頑張ってるならまあいいよね、
となると思います。
努力の方向が間違っているのは
それはそれで
かわいそうなことではありますが。
実は2番目の存在の扱いが難しいです。
救われるべき対象なのか
ただ怠けているのか
これは非常に難しい線引きとなるからです。
なまじ勉強ができる人から見ると
理解ができない・気持ちが分からない
という感情になると思います。
だからなんだって話かもしれません。
やるかやらないかの世界と言ったら、本当にその通りです。
しかし、悲しい現実だと思いますが、
勉強で頑張れる・頑張れないも
生まれ持っての才能で決まっているんじゃないか
と思います。
教育制度を変えるべきだ!
とかは言うつもりはありません。
敢えて雑な言い方をすると
人の知能を測る指標という意味では
まあまあの精度があります。
こんな考え方もあるよね
くらいに受け止めて頂けると幸いです。
まとめ
実はこの世界は、生まれ持ったもので
ほとんどが決まってしまうかもと
最近考えています。
生得主義(ナチュラリズム / Nativism)と言うらしいです。
「どんなに才能がなくても、努力すれば何とかなる」は確かに
そのような一面もあると思います。
しかし、「才能」の定義を「努力できる」というところまで
拡張すると話は変わっていると思います。
だからって努力をしなくていいと
言っているわけではないです。
ただ、向いていない分野
頑張ることすらできない分野は存在します。
逆にそう思うことで、
少しは気が楽になる人もいるのではないでしょうか。
成果が出ない、頑張ることが続けられないと
思いつめ過ぎは良くないです。
分野を変えれば、きっと何かが変わるかもしれません。
おまけ
私は小学生から現在に至るまで、何かしらのスポーツをしています。
スポーツも圧倒的な才能の差を実感する分野だと
個人的に思っています。
挫折経験をたくさんしてきました。
挫折経験については過去記事でも触れているので
興味ある方は是非読んでみてください。
あの経験があるからこそ
今、頑張れているのだと思います。
「自分は大した人間ではない
凡人である」という気持ちと
「みんなから称賛されたい」
といった承認欲求の狭間でもがいています。
この記事を読んだいる人の中で
圧倒的な才能の持ち主は少ないと思います。
しかし、努力できる才能はあると思います。
努力できる凡人にできることは時間を投下し、
努力することだけです。
一緒に頑張っていきましょう。
コメント